Minstrel☆Sanctuary

余韻・余情12句鑑賞☆冬・新年


霜百里舟中に我月を領す   与謝蕪村 (『蕪村句集巻之下』安永四年)

漢詩訓読のような歯切れのリズム。絵画よりも映像的手法で、カメラは俯瞰の霜世界から、淀川を下る一艘の舟へ。そこにたゆたう蕪村へとズーム。霜降るときの異様なまでの静寂。そんな舟中から、一気に天にある月の存在を意識する<我>。重力を感じさせないそのジャンプ。卑小な存在<我>vs.気宇壮大な<霜月夜>の呼応。時の流れを滑る<舟>は紛れもない今を象徴し、いつしか<舟>という殻を脱いで、<我>は生まれ変わる。宇宙の王として。前書き<几董と浪華より帰さ> 
 


わが影の吹かれて長き枯野哉   夏目漱石 (『漱石俳句集』明治四十年) 

光ある処すべての存在に影が生まれる。生きている限り付き纏う影。振り払おうとしても離れない。嵐が丘に佇む狂気のヒースクリフ?と思いきや、心も氷る風に<吹かれて>影が長くなる落差。漂うユーモア。蕭然とした枯野が命を吹き込まれ、不意に輝き出すミラクル。だが作者の描く軌跡は深遠だ。<わが影>とはもう一人の自分自身。<影>は<光>を見失わないよう、細心の注意を払い<光>を見つめ続ける。<影>は熱烈な賛美者。同時に、酷薄な監視者でもある。両極の漱石。



歌かるたよみつぎてゆく読み減らしゆく   橋本多佳子 (『紅絲』昭和二十六年)

幼い頃、元日は親戚一同が集う母方の祖父の家へ。女系家族ゆえ、当然のごとく百人一首の出番。十八番の恋歌一首を胸に秘め、読み手の華麗な声に耳をすます。減ってゆく取り札。読み手の声は心臓の鼓動に重なる。生きもののように飛び跳ねつつ攫われる取り札。涙と溜息。盛装の着物の絹の匂い。父母の常と違う表情。従姉たちの囁き。湧き上がる闘志。掲句の畳み掛けるような表現が、字余りも含めて緊迫感を生み出し、夫々の想い出を喚起する圧倒的なパワーが内在。 



落葉松はいつめざめても雪降りをり   加藤楸邨 (『山脈』昭和三十年)

しんとする。諳んじる度、作者を超えて自分自身が一本の<落葉松>になってしまう。目瞑れば、雪を冠した遙かな峯々が泛ぶ。天空から降り来て降り止まぬ雪片の、未完の結晶体を身内に感じる。そう、こんな雪の降る日は、眠りが最適。ときどき世界を確かめる為に目覚めはするが、一万光年に一度位でいい。覚醒したって、たかだか知れている。存分と言っていいほど、郭公に愛された落葉松(わたくし)だから。余韻・余情を内包する韻文は散文に匹敵し、ときに韻文は散文を凌駕する。


 
冬雷に醒めしイスカリオテのユダ   有馬朗人 (『立志』平成十年) 

ユダの新説をご存知だろうか。パピルスを解読したら、裏切り者ではなかったという驚愕。キリストに従い、真に理解し、教えの成就の為に行動したと。仮に事実として、代名詞へ昇格した永遠の汚名<ユダ>。裏切りは誰の心にもある。絶対の潔白など在り得ない。<冬雷>の音と光と焦げた匂い。その不気味さの裏側は孤立無援。眠れても平穏からは遠かった。震える闇に息を潜めるユダ。くっきり見開いた彼の瞳はどんな色だったのか。時空を虚実を越えて迫る彼の眼差しが痛い。



乳足らひしごとくに眠る山のあり   上田五千石 (『天路』平成十年) 

赤ん坊の一番幸せな貌は?と聴かれたら、間違いなく寝顔と答える。母のぬくみに包まれて、心ゆくまで乳を貪り眠る。生れ落ちた瞬間から、原初の不安に突き動かされて泣く赤ん坊。周りは戸惑うばかり。だから睡る子には、汚濁の世に降りてきた天使の至福を感じる。未熟な母の為に生まれてくれてありがとうと。険しくはないが、静かで穏やかな山の容。麓には水鳥を隠す葦の原。ミルク色の冬日を浴びた山の寝息が聴こえ始める。作者と意識下の世界の繋がりを実感。



雪だるま無用の礫くらひけり   藤田湘子 (『神楽』平成十一年) 

同集に<亡き師ともたたかふこころ寒の入>。聴けば孤高を貫いた人。<無用の礫>を浴びることも少なくなかったかと推察される。これは飽くまで推量の域。何しろ主人公は<雪だるま>。実は空を飛びたくてうずうずしている。しかし、愚かな人間どもの前でそうそう見せるパフォーマンスでもなし。雪合戦の流れ玉であろうとお安い御用。いつでも受けて立つファイティング・ポーズ。そんな彼のバックに見える空は、作者の潔さを映して、きいんと晴れ上がった青い切っ先。



黒板の前に立ちゐる夢始   岩城久治 (『冬焉』平成十二年)

初夢だから、飛切りいい夢を見たい。それなのに結局抱えている想いが突出して、地続きの直ぐ忘れる夢しか見られない。作品の時点では現職で、現在教職を辞しても、講義に多忙を極める作者。つまり黒板とは切っても切れない関係。飄々と、誠実で柔和、しかし毅然として。誰かに何かを教える為に、混沌の世に差し向けられた人物だから。故に<前に立ちゐる>。どう言えば分かるだろう、これなら解り易いかと試みつつ、命懸で真理を伝えようとする瞬間の<黒板>なのだ。
 


馬となるべき魂あをく雪原に   正木ゆう子 (『静かな水』平成十四年)

一枚の端正な絵画が雪原に架かる。まだ生まれぬ生きものの<魂>の在り処など考えたことも無かった。まっさらな雪を積んだ原が漠と<あをく>あるのは、こういうカラクリ。<あを>い魂は馬限定?青毛は秀麗だ。人間の醜悪さと比べるのも憚られる。雪の<あを>さを集めて創られし汝、馬よ。その鬣に触れてみたい。驚かせてしまったら、一嘶きで翼が生えるかも知れない。作者には見えないものを見る目が生来備わっているらしい。多分、身の辺に静謐な水を廻らせているから。 


業深き身をどんど火にあぶりをり   角川春樹 (『海鼠の日』平成十六年)

獄中の現在を過去として捉え、<海鼠>となり耐え抜いた作者。自らの<業>を清浄な<火>にあぶる。天上の火を盗んで与えたプロメテウスの昔から、<業>を背負って人は生きる。<敗れざる者歳月に火を焚けり> (『檻』平成七年)。ここにも<火>のキーワード。聖なる<火>に身を寄せつつ、胸の<火>を決して絶やさない。言葉に尽くせぬ生の切なさが、飛び火となって読み手の心へ舞い降りる。<火>が心の渚を祓うまで。死と再生の刹那に立ち会うように。

 

梟が棲む南座の奈落には   大島雄作 (『鮎笛』平成十七年) 

オペラ座の奈落には怪人が棲む。これは映画の影響もあって、概ね世に知られる。誰しも誰かに愛されたいが、かの怪人の愛はどこか尋常でない。一方、作者は東の果ての<南座>には<梟>だという。<梟>が呼び続ける愛に応えるのは作者なのか。とまれ南座の存在感なら納得。京都は、古来地下に水脈を蔵し、場としての磁力は一際。楽屋の鏡を抜けた奈落に、梟が百年生息していても違和感はゼロ。ところで、これから南座の前を通るときは、耳を尖らせることを忘れずに。



輪かざりを外し後ろをふりむかず   山本千之 (『遠花火』平成十八年) 

家族や労働の変化が、ゆったり迎える新年を困難にする二十一世紀。非日常のハレから、ケの日常ヘ戻る一瞬の動作が凛々と響く。人は振り返りたい生きものだ。過去の栄光、失敗でさえ、想い出なら一層浸りたい。ここで作者は<後ろをふりむかず>の姿勢を貫く。只管何かを拒む立ち姿。彼を振り向かせぬ存在とは?前述の『オルフェ』で、振り向く行為は、大切な何かを失うメタファーとして作用する。振り向けないほど茫漠とした海鳴りが、彼には聴えていたのだろうか。





 俳句 10月号  2006
[PR]
by minstrel1209 | 2007-01-22 18:35 | review