Minstrel☆Sanctuary

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 星には花が

    
                      
サン=テグジュペリは、砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているからだと書いています。昭和六十三年、京都大会に満一才の娘を伴い参加。無邪気に駆け回る娘の後を追って、大らかな微笑の照子先生に遭遇、身に余る優しいお言葉をいただきました。競泳が先生の選に。コメントは「茫洋としたところに期待します」母曰く、詩人の直感で本質を見抜いておられると。慈愛のまなざしは千里眼でもあったのですね。

              
   返り花して海彦の櫻かな       角川照子

 
平成二年、鹿児島大会。真の挨拶句とは?どうすれば心の篭った挨拶句が生まれるのだろう。これは初心の頃からの最大の謎であり、永遠のテーマ。その答えは、常に先生の作品そのものに在ると感じます。砂漠の井戸も遥かな星に咲く花も目には見えない。先生を想うとき、サン=テグジュペリの言葉が消えては浮かびます。同四年、春樹先生のサンタマリア号帰港で神戸メリケン波止場へ。「純ちゃん元気?」と娘のことをまず尋ねて下さる照子先生の細やかなお心遣いに、胸の奥が熱くなりました。


   雁来紅湖に果てのありやあり     角川照子

 
同十年、長浜大会。会場のエレベータから思いがけず出て来られて、お声をかけていただいたのが最後となってしまいました。雁の頃、岸壁に鼓動のような音を立てて打ち寄せる湖の印象は、殊に切ない想い出です。
 
おそらく太い万年筆なのでしょう。独特の文字で綴られたお手紙の行間から滲み出す温もり。河誌が届くと真っ先に開ける青柿山房だより。先生の柔らかな息遣いさえ感じられて、いつも勇気をいただきました。人に対して、どんなときも心のドアを開けておくことの大切さを教えて下さった先生。こんなにも突然お別れが訪れるとは。先生を乗せた銀河鉄道は、源義先生と真理さんの待つ駅に辿り着いたでしょうか。
 
同十五年六月号俳句界の表紙を飾る照子先生の笑顔。雛のエピソードがあまりにも痛いです。癒えない悲しみを抱えながら、他者を包み込むことができる人の笑顔。遠くて見えないけれど、瞬く星には花がひとつ咲いている。掲句、春の明るさと淋しさが寄り添って、限りあるからこその命を輝かせる。その清冽な香気に背筋を伸ばす思いです。
  

春筍の身を反らしつつ相寄りぬ    角川照子
  




河 2月号  角川照子追悼特集号   2005
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by minstrel1209 | 2007-02-18 12:20 | review

心が覗き込む景色   

 
 春の句の失敗と成功
       
①蝌蚪生れて影よりもよく動くこと 野田久美子[失敗]
②薄氷の氷のひかり放ちけり    吉田鴻司 [成功]
 
 春寒の頃、河原の岩場で見つけた蝌蚪の群れ。もう足が生えかけているのやら、まだ半透明の管の中で蠢いているのやら。命の生まれる瞬間に立ち合うとき、人は心を大きく揺らす。たとえお玉杓子であっても、極小ゆえの愛しさがこみあげる。最近、何かを見ると影というものの存在が気になって、真っ先に蝌蚪よりも影を目で追ってしまう。命の在る限り、翳るときも照るときも影は分身で在り続ける。命が生まれ出づる季節=春は、影も躍動を始める。

 ①の失敗はまず「よりよく動く」にあると自己分析。これらの言葉は一見達者に見えて、使ってみたくてうずうずするが、危うさを抱えている。「蝌蚪生れてたちまち影の浮きゐたり」と視点を変えて推敲。影への執着と共に、影と切り離せない憂鬱をも表現したかったが、自得できなかった。この悔いを忘れず心の奥の抽斗にしまう。いつかどこかで蝌蚪に遭遇したときの為に。

 春は冬のモノトーンの世界を耐えた歓びに溢れ出す。けれどその明るさと同時に、光の中の春は一種淋しさや脆さを合わせ持っているのではないだろうか。心だけが身体からふわふわと漂い出してゆきそうな。その感覚を無意識に包み込んだ作品こそが優れた春の俳句であると私は確信する。

 ②はその結晶体。同じ作者に③「薄氷の何やら抱へゐたりけり」④「薄氷のうごいてゐたる景色かな」がある。中でも②は、純度を深めた薄氷の世界を構築する。冬の極寒に張る重量感のある氷とは対照的に、早春の氷は触れればすぐにでも壊れそうなほどナイーブで透明だ。さみどりの萌え出たばかりの草か花屑か、それとも小さな生き物か、そんな儚い何かを抱えていたりする薄氷。或るとき透き通った薄氷のスクリーンに動くものは、作者にとって懐かしい山河なのか、風景の中の人間そのものなのか、図らずも心を掻き立てる何かであるはずだ。

 一方、②では、作者のまなざしは薄氷の「氷のひかり」にフォーカス。③や④に表出されたもろもろの春の兆しを内包しつつ、空の光源が余りに強すぎて、薄氷自体から放たれる眩しい輝き以外何も映さず、目には見えない。明るい春の景色が取り囲んでいるその中にあって、作者の心が覗き込む唯一の存在としての薄氷。触れてはならないけれど、ひかりへと手を伸ばしてしまう。そのつめたさに触ってみずにはいられない。なぜなら、そのひかりは只管作者に向かって放たれている。そんな象徴性を感じる作品だ。

 失敗と成功について考えながらここまで辿り着き、改めて俳句の許容量に驚く。けれど志を高く持つことで、叶わぬ夢に近づく一歩を始められるのも俳句。俳句は人の想いを呑み込んで、宇宙のように広がり続けているのだから。
               

    
俳句 3月号 入門特集 2005 
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by minstrel1209 | 2007-01-24 09:20 | review

余韻・余情12句鑑賞☆冬・新年


霜百里舟中に我月を領す   与謝蕪村 (『蕪村句集巻之下』安永四年)

漢詩訓読のような歯切れのリズム。絵画よりも映像的手法で、カメラは俯瞰の霜世界から、淀川を下る一艘の舟へ。そこにたゆたう蕪村へとズーム。霜降るときの異様なまでの静寂。そんな舟中から、一気に天にある月の存在を意識する<我>。重力を感じさせないそのジャンプ。卑小な存在<我>vs.気宇壮大な<霜月夜>の呼応。時の流れを滑る<舟>は紛れもない今を象徴し、いつしか<舟>という殻を脱いで、<我>は生まれ変わる。宇宙の王として。前書き<几董と浪華より帰さ> 
 


わが影の吹かれて長き枯野哉   夏目漱石 (『漱石俳句集』明治四十年) 

光ある処すべての存在に影が生まれる。生きている限り付き纏う影。振り払おうとしても離れない。嵐が丘に佇む狂気のヒースクリフ?と思いきや、心も氷る風に<吹かれて>影が長くなる落差。漂うユーモア。蕭然とした枯野が命を吹き込まれ、不意に輝き出すミラクル。だが作者の描く軌跡は深遠だ。<わが影>とはもう一人の自分自身。<影>は<光>を見失わないよう、細心の注意を払い<光>を見つめ続ける。<影>は熱烈な賛美者。同時に、酷薄な監視者でもある。両極の漱石。



歌かるたよみつぎてゆく読み減らしゆく   橋本多佳子 (『紅絲』昭和二十六年)

幼い頃、元日は親戚一同が集う母方の祖父の家へ。女系家族ゆえ、当然のごとく百人一首の出番。十八番の恋歌一首を胸に秘め、読み手の華麗な声に耳をすます。減ってゆく取り札。読み手の声は心臓の鼓動に重なる。生きもののように飛び跳ねつつ攫われる取り札。涙と溜息。盛装の着物の絹の匂い。父母の常と違う表情。従姉たちの囁き。湧き上がる闘志。掲句の畳み掛けるような表現が、字余りも含めて緊迫感を生み出し、夫々の想い出を喚起する圧倒的なパワーが内在。 



落葉松はいつめざめても雪降りをり   加藤楸邨 (『山脈』昭和三十年)

しんとする。諳んじる度、作者を超えて自分自身が一本の<落葉松>になってしまう。目瞑れば、雪を冠した遙かな峯々が泛ぶ。天空から降り来て降り止まぬ雪片の、未完の結晶体を身内に感じる。そう、こんな雪の降る日は、眠りが最適。ときどき世界を確かめる為に目覚めはするが、一万光年に一度位でいい。覚醒したって、たかだか知れている。存分と言っていいほど、郭公に愛された落葉松(わたくし)だから。余韻・余情を内包する韻文は散文に匹敵し、ときに韻文は散文を凌駕する。


 
冬雷に醒めしイスカリオテのユダ   有馬朗人 (『立志』平成十年) 

ユダの新説をご存知だろうか。パピルスを解読したら、裏切り者ではなかったという驚愕。キリストに従い、真に理解し、教えの成就の為に行動したと。仮に事実として、代名詞へ昇格した永遠の汚名<ユダ>。裏切りは誰の心にもある。絶対の潔白など在り得ない。<冬雷>の音と光と焦げた匂い。その不気味さの裏側は孤立無援。眠れても平穏からは遠かった。震える闇に息を潜めるユダ。くっきり見開いた彼の瞳はどんな色だったのか。時空を虚実を越えて迫る彼の眼差しが痛い。



乳足らひしごとくに眠る山のあり   上田五千石 (『天路』平成十年) 

赤ん坊の一番幸せな貌は?と聴かれたら、間違いなく寝顔と答える。母のぬくみに包まれて、心ゆくまで乳を貪り眠る。生れ落ちた瞬間から、原初の不安に突き動かされて泣く赤ん坊。周りは戸惑うばかり。だから睡る子には、汚濁の世に降りてきた天使の至福を感じる。未熟な母の為に生まれてくれてありがとうと。険しくはないが、静かで穏やかな山の容。麓には水鳥を隠す葦の原。ミルク色の冬日を浴びた山の寝息が聴こえ始める。作者と意識下の世界の繋がりを実感。



雪だるま無用の礫くらひけり   藤田湘子 (『神楽』平成十一年) 

同集に<亡き師ともたたかふこころ寒の入>。聴けば孤高を貫いた人。<無用の礫>を浴びることも少なくなかったかと推察される。これは飽くまで推量の域。何しろ主人公は<雪だるま>。実は空を飛びたくてうずうずしている。しかし、愚かな人間どもの前でそうそう見せるパフォーマンスでもなし。雪合戦の流れ玉であろうとお安い御用。いつでも受けて立つファイティング・ポーズ。そんな彼のバックに見える空は、作者の潔さを映して、きいんと晴れ上がった青い切っ先。



黒板の前に立ちゐる夢始   岩城久治 (『冬焉』平成十二年)

初夢だから、飛切りいい夢を見たい。それなのに結局抱えている想いが突出して、地続きの直ぐ忘れる夢しか見られない。作品の時点では現職で、現在教職を辞しても、講義に多忙を極める作者。つまり黒板とは切っても切れない関係。飄々と、誠実で柔和、しかし毅然として。誰かに何かを教える為に、混沌の世に差し向けられた人物だから。故に<前に立ちゐる>。どう言えば分かるだろう、これなら解り易いかと試みつつ、命懸で真理を伝えようとする瞬間の<黒板>なのだ。
 


馬となるべき魂あをく雪原に   正木ゆう子 (『静かな水』平成十四年)

一枚の端正な絵画が雪原に架かる。まだ生まれぬ生きものの<魂>の在り処など考えたことも無かった。まっさらな雪を積んだ原が漠と<あをく>あるのは、こういうカラクリ。<あを>い魂は馬限定?青毛は秀麗だ。人間の醜悪さと比べるのも憚られる。雪の<あを>さを集めて創られし汝、馬よ。その鬣に触れてみたい。驚かせてしまったら、一嘶きで翼が生えるかも知れない。作者には見えないものを見る目が生来備わっているらしい。多分、身の辺に静謐な水を廻らせているから。 


業深き身をどんど火にあぶりをり   角川春樹 (『海鼠の日』平成十六年)

獄中の現在を過去として捉え、<海鼠>となり耐え抜いた作者。自らの<業>を清浄な<火>にあぶる。天上の火を盗んで与えたプロメテウスの昔から、<業>を背負って人は生きる。<敗れざる者歳月に火を焚けり> (『檻』平成七年)。ここにも<火>のキーワード。聖なる<火>に身を寄せつつ、胸の<火>を決して絶やさない。言葉に尽くせぬ生の切なさが、飛び火となって読み手の心へ舞い降りる。<火>が心の渚を祓うまで。死と再生の刹那に立ち会うように。

 

梟が棲む南座の奈落には   大島雄作 (『鮎笛』平成十七年) 

オペラ座の奈落には怪人が棲む。これは映画の影響もあって、概ね世に知られる。誰しも誰かに愛されたいが、かの怪人の愛はどこか尋常でない。一方、作者は東の果ての<南座>には<梟>だという。<梟>が呼び続ける愛に応えるのは作者なのか。とまれ南座の存在感なら納得。京都は、古来地下に水脈を蔵し、場としての磁力は一際。楽屋の鏡を抜けた奈落に、梟が百年生息していても違和感はゼロ。ところで、これから南座の前を通るときは、耳を尖らせることを忘れずに。



輪かざりを外し後ろをふりむかず   山本千之 (『遠花火』平成十八年) 

家族や労働の変化が、ゆったり迎える新年を困難にする二十一世紀。非日常のハレから、ケの日常ヘ戻る一瞬の動作が凛々と響く。人は振り返りたい生きものだ。過去の栄光、失敗でさえ、想い出なら一層浸りたい。ここで作者は<後ろをふりむかず>の姿勢を貫く。只管何かを拒む立ち姿。彼を振り向かせぬ存在とは?前述の『オルフェ』で、振り向く行為は、大切な何かを失うメタファーとして作用する。振り向けないほど茫漠とした海鳴りが、彼には聴えていたのだろうか。





 俳句 10月号  2006
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by minstrel1209 | 2007-01-22 18:35 | review

海の中から眺める太陽


 ジャン・コクトーは、シネマトグラフ『オルフェ』の中で、詩人を「書くともなく書く人」と彼の分身オルフェに語らせている。俳人という存在も例外なく書くともなく書き、すべてを書き尽くさない。

 それはなぜか。書き尽くすと作品が単なる説明や報告に終わってしまう。感動の実況中継に懸命になるあまり「それで?それが一体どうしたの?」と逃れられない疑問符を突き付けられる。対象への想いを言葉だけで尽くすことは不可能。では、創り手はどうすればいいのか。季節の匂いや光や影を十七文字に仕舞う。零れ落ちる想いを掬い取って響かせるには。その為に原石を磨く=推敲は重要な手立てのひとつである。思い切って削り、捨て去ることで封印は解かれ、創り手は一歩一歩詩の本質へと近づいてゆく。

 余韻・余情の作品からは描かれない風景が、響きや彩を伴ってリアルに見えてくる。読み手の心にさざ波を立てる瞬間だ。然も自己の投影が鮮明になるほど、その光景は読み手の中で無辺の拡がりを見せ、次第に沈み深まってゆく。余韻・余情とは、例えば海の中から眺める太陽なのかも知れない。素の太陽が見たままの五・七・五ならば、海面という濾過装置を通して立ち顕れる未知の景こそが、余韻・余情。その景を探す心が余韻・余情に寄り添うことを可能にする。

 言葉で表現しきれない情趣を伝達する宿命の創り手と、表現された文字の外にある感慨を想起する読み手のロール。創り手と読み手双方の心が奏で合うバイブレーションにより、余韻・余情の世界は限りなく増幅する。はじめて出逢う作品や作者と、時空を飛び越えて繋がり合える。この不思議に導かれながら、先達・先輩の作品を読み解いてゆこう。



余韻・余情を探る十二句鑑賞・冬・新年☆概論
俳句10月号 2006
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by minstrel1209 | 2007-01-21 10:37 | review